松本文明物語

松本文明は昭和24年3月25日、広島県世羅郡甲山町に生まれました。
尾道から中国山脈に向かってバスで40分ほど走った山間の小さな町です。生家は今も農業と材木商を営んでいます。 長男だった父親の一人息子として生まれましたが、父親は文明が2才の時に事業に失敗、母親と彼を残して家を出て行きました。 その後、父親からの連絡のないまま、母親も文明が小学校の2年生のときに生活の自立を求めて上京していきました。そのため、松本文明は、父の顔も知らず、母親との縁も薄い少年期を過ごすこととなりました。とはいえ、祖父母と叔父夫妻のもとで松本家の跡取り息子として大切に育てられ、ほとんど何不自由ない少年時代だったといいます。 幼稚園、小学校や山道を4キロ歩いて通いました。春夏秋冬の織りなす豊かな自然の中で伸び伸びと育ったのです。

松本文明物語

昭和36年に小学校卒業と同時に12才で上京して、母親と一緒に暮らすことになりました。 やはり親と暮らすほうが良いだろうという周りの大人たちの配慮のあったのでしょう。 文明はそのときに別れを告げた人々や友だちの顔、ふるさとの山河の姿、空の色 、備後三川と尾道の駅のたたずまいを今も忘れていないといいます。悲しみの中で、この人たちに、この故郷に、喜んでもらえるような立派な人間になろうと誓った文明少年でした。

しかし、その想いも母親と住む東京のアパートに着いたときには、もろくも砕かれてしまいました。田舎と東京とでは、あまりにも環境が違いすぎたのです。田舎では代々築かれてきた大きな家に住み、近所の人たちから家族同様にいつくしんでもらい、子供同士は皆兄弟のようにすくすくと育っていたものの、母親と住むことになったのは、たった六畳一間の日当たりの悪いアパートでした。その母親も一日縫製工場で働いており、ほとんど一人ぼっちの毎日だったのです。

世田谷区立奥沢中学校に入学、ハンドボール部の活動に熱中しながら次第に東京の生活に慣れていったのは、一年生も終わりの頃だったといいます。同時に、生活は母親が働いて得るお金で成り立っていること、お金はすぐになくなってしまうこと、世の中にははっきりとした貧富の差があることなどを身にしみて知らされたのもこの頃でした。

 

高校は、曹洞宗の学校である世田谷学園へ入学。いまに至る、文明に大きな影響を与えた良き師、良き先輩、後輩に恵まれた学校だったといいます。

高校時代、文明は生徒会長を経験しています。友と企画し、意見をまとめ、責任の重さに耐えながら、やりぬくことの喜びに触れました。世情にはベトナム戦争が深い影を落とし、学生運動も盛んな時代でした。高校生といえども無関心ではいられず、文明も先生を含めて毎日のように戦争と平和、世界と日本、政治のあり方、自分と社会のかかわり方などについて討論を繰り返しました。
高校時代を通じて、政治への関心の高まった文明は、昭和42年明治大学二部政経学部政治学科へ入学しました。 二部(夜学)を選んだのは、これ以上母親に負担をかけずに、自分の力で生きていこうと決心したからでした。同時に、母親は東京を去り、福山市で予備校の寮を経営して幸せに暮らすこととなりました。

中学時代からアルバイト経験のあった文明は、電気工事店に職を得て独立自尊の意志を持って大学生活を始めました。当時、大学は紛争の真っ最中、講義は休講につぐ休講、デモとアジ演説、機動隊との衝突など、とても学問の府とは言えません。文明も毎夜、活動家たちとの議論を重ねました。しかし、文明には理論と現実の間にあるギャップをどうしても理解できなかったといいます。そこで現実の政治を勉強しようと強く決心し、志したのです。 大学の先輩の縁によって、参議院議員の石井桂の門を叩いたのは42年9月のことでした。ここで石井桂の選挙応援に駆けつけた新進気鋭の都議会議員が高橋一郎です。文明は彼のさわやかな人柄と説得力のある演説にぐいぐいと惹きつけられていくのを感じました。そして、日毎に高橋一郎議員の指導を受けるようになりました。明くる43年10月5日からは、高橋一郎のもとで秘書として働くことになり、高橋家に住み込むことになりました。文明が19才のときでした。
以来、大学卒業後も17年にわたって文明の秘書生活が続き、それまでの経験を真に生かして新しい挑戦=東京都都議会議員への立候補、「皆様の生活を豊かにするために」松本文明の政治への挑戦が始まりました。 そして皆様方の多大なるご支援を頂き、その後20余年の政治活動の成果を得て、昨年より衆議院議員として国政への挑戦の機会が与えられました。長い年月、ご支援を頂いた皆様方のご期待にお応えできる場を得て、この国とわが地域の明日を夢と希望の持てるものに、次世代に誇りを持って引き継いでもらえるものにと、日々新たな気持ちで挑戦を続けて行こうと行動しております。

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